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国民とは

 個々人を指す場合、ある特定の国において、その国の国籍を持つ者をいう。
何らかの共通属性を根拠にしてまとまった政治的共同体を国民と呼ぶこともある。
国民は、居住する地理範囲に一つの国家を作ることが予定される。そのような条件を満たす国家を、国民国家と呼ぶ。この意味での国民は、民族と重なる例が多いが、言語・文化にもとづかない国民もあるため、完全に同じというわけではない。
 国民が持つとされる属性は、文化・宗教・歴史など基準が異なる。また、どのような基準をとっても国内外にそこから外れる人がでてくる。そのような逸脱に対しては、同化・排斥・追放などの動きが生じる場合がある。
 国民は、共通属性の産物ではなく、政治の産物である。
国民の擁護者が出現し、その宣伝や教育が成功して、人々が自らを宣伝された区分での国民であると自覚したときに、国民が生まれる。ベネディクト・アンダーソンは以上のように説き、国民を「想像の共同体」と規定した。
実際に、共通属性を持つ集団が国民意識を生まないことは非常に多く、スイスの例のように共通属性がないところに国民意識が生まれることも稀にある。
 一方、対内的には、国民という概念は、政治を一部の特権者や有力者だけに関わるものとする考えを退ける。少なくとも観念的には、その範囲内のすべての人を政治共同体の中に含め、国家の行為をすべての人の共同行為とみなす。それゆえ、国民という概念からは、ある共通属性から外れる人を排除差別しつつ、区切った範囲内においては人を平等化するという二重の作用が生まれる。(国民主義
このような国民を求める運動は、歴史的には、18世紀のヨーロッパで国民主義として始まり、20世紀には世界中に広まった。
 憲法において国民主権を定める国家において、国民は主権を有し、主に選挙権及び被選挙権を以って参政権を行使することができる。

 唐突ながら、読者は江戸時代が好きだろうか? 歴史小説や映画の数などからすると、幕末動乱を例外として、戦国時代等に比べると一般に人気はいま一つといったところではないか。その理由は、江戸時代はどうも溌剌とした印象が薄くてドラマ向きでなく、息苦しく退屈に見えるからだろう。

江戸時代は本当に好きですか?

 実際に、江戸時代後半は人口が停滞し、社会活力もなかった。元禄時代ぐらいまでの江戸時代前半は、戦乱時代が終わって新田開発が進み人口増で活気があったが、幕府は技術革新と社会の流動性を厳しく規制し、社会活力より社会の安定・秩序を最優先した。福沢諭吉が憎んだ「親の敵」の封建時代そのものである。

 二度と戦乱を起こさせないためだったが、教科書にも出てくる大井川などの橋の廃止だけでなく、荷車など車輛も原則禁止し、複数マストと甲板を張った外洋船も厳禁した。手押し車に乗せた大五郎が「チャン!」と呼ぶ「子連れ狼」が気ままに旅をすることなど、実際には全くあり得なかった。

 江戸期後半は、新田開発も限界に達して、最低限の生活水準維持のため、「姥捨て山」伝説の信憑性はともかく、嬰児殺し(間引き)が一般化し、人口増はマルサスの罠によって約3000万人で長らく停止した。

 一部の環境派からは、人間の屎尿を肥料として本格的にリサイクル使用し始めた江戸時代は、持続可能社会のモデルのようにも言われているが、屎尿由来の回虫が蔓延して人々の栄養状態は悪化し、男の平均身長は150センチ台、女は140センチ台まで低下、その多くの頭蓋骨には栄養失調の証拠である眼窩の「す」が見られる。

人口増による薪炭利用で里山は荒廃していた

 悪臭を発して寄生虫の卵を大量に含む屎尿の肥料利用が広まった理由は、本来の肥料である堆肥(落ち葉等を自然発酵させたもの)の供給源の里山が、元禄以前の人口増による炊事・暖房や窯業・製鉄のための過度な薪炭利用で荒廃したことと、新田開発によって里山が遠方になりすぎたための苦肉の策であった。

 この皮肉な結果として、荒廃した里山に成立する赤松林にしか生えないマツタケがどんどん採れるようになった(第2次大戦後は、石油系燃料の普及で薪炭採集が激減し、結果として里山の自然回復で赤松林が激減、マツタケも希少品化した)。

 つまり、江戸期後半の日本も、人口とエネルギーと環境の深刻な相互矛盾に直面していたのである。

 一転して明治時代は、江戸時代に全くなかった大きな戦争が3回もあったにもかかわらず、活気に満ちた明るい時代のイメージが強い。これは、維新によって政治・社会・技術が大きく変わっただけでなく、英国産業革命と同様に、維新直後の政府による佐賀の高島炭鉱開発を嚆矢として、エネルギー源が薪炭から石炭に代わって産業化が進み、所得水準と人口が増大したからである。

 近年、江戸時代にも識字率や商品流通が向上していたことをもって、江戸時代に既に産業化が始まっていたかような議論も多いが、エネルギーの視点を欠いた議論は産業化の本質を見誤りかねない。

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The Dandelion Girl

「君はここによく来るのかい?」
「ええ、ここは私のお気に入りの時空座標なの。ここに何時間か立って、ずっと見ていても飽きることはないわ。おとといはうさぎを見たの。昨日は鹿。そして今日は、あなた」

メトロポリス

国、大きな地方における経済・文化の中心であり、国際的中継点となるような都市のことである。
多くのメトロポリスは、その周りの都市と連結し大都市圏を構成する。

メトロポリスという言葉は、ギリシャ語でmeter(母)とpolis(都市)をつなげたmetropolis(母都市)に由来する。
metropolisは、古代ギリシャの植民地において、最初に入植した都市を指すもので、それはその植民地における政治・文化の中心であった。
古代都市のうちアレクサンドリアダマスカスなどは21世紀になっても現存しており、世界で最も長期間にわたって人間が居住している都市に数えられることが多い。

チェルノブイリからみた福島における鳥の個体数論文概要より

「福島での調査は昨年の7月に行い、立教、東京、長崎、福島大学の研究者と共同して行った。
今年の5月から行う研究は、昨年の研究の分析、修正として行うものだ。
7月の研究が今になって発表されることについて査読雑誌の論文掲載にはこれくらいの期間(去年の7月に研究してから今年の2月までの期間)があるのが普通で、科学的根拠となるためには掲載されるのが最低限必要だ。」

Abundance of birds in Fukushima as judged from Chernobyl
チェルノブイリからみた福島における鳥の個体数

概要

「福島とチェルノブイリで共通して生息する鳥類の個体数におよぼす放射性物質の影響が比較・検討された。
鳥の個体数と放射線量に負の関係が見られたが、福島とチェルノブイリでは重要な違いが見られた。
福島とチェルノブイリの2つの地域で共通して見られた14種の鳥類の個体数に放射線量の負の影響が見られたが、両地域間と鳥の種間で放射性物質による影響が異なった。
14種の鳥の個体数と放射線量の関係は、チェルノブイリよりも福島でより強い負の関係が見られた。
これらより、2011年3月11日の福島での原子力事故から間もない3月から7月の鳥の繁殖期間に、すでに放射線の負の影響が出始めていることが明らかになった。」


まとめ

日本、デンマーク、アメリカから集まった研究者による調査で、福島県内の放射性物質による汚染が高い地域で鳥の個体数が減少していることが明らかになりました。
立教、長崎、福島、Paris-sud、サウスカロライナ大学の研究者は、2011年7月、福島県内の300に及ぶ地点で鳥の種数と個体数を調査しました。
これらの調査地点は、放射性物質の汚染レベルのデータを元に選択されました。
放射線量が最も高い地点は、1時間あたり35マイクロシーベルト、最も低い所で1時間あたり0.5マイクロシーベルトでした。
それぞれの調査地点での鳥の個体数と種数は、目視と鳥の鳴き声により調査・判別されました。
これらのデータは数学的手法と統計学を用いて解析され、放射線量が異なる地域間で鳥の個体数がどう異なるか調べました。
その結果、全体的に鳥の個体数は放射線量が高い所でより少なくなることが明らかになりました。
研究者は、福島での調査結果をチェルノブイリでの調査結果と比較しました。
その結果、福島とチェルノブイリの両地域で14種の鳥類が共通して見られ、これらの鳥類においては、チェルノブイリより福島の方が、その個体数に強い負の影響をおよぼしていることが明らかになりました。
これにより、福島に生息するこれら14種の鳥類は、チェルノブイリで25 年間放射線を浴びている鳥類よりも、より敏感に放射線量に反応していることが推測されました。
しかし、両地域で見られる全ての鳥類を比較したところ、放射線量と鳥類の個体数の関係は、福島よりもチェルノブイリでより強い負の関係が見られました。
この発見は、ほとんどの鳥類がチェルノブイリの汚染地域からいなくなっていることを示唆しています。
今回の研究で明らかになったことは、チェルノブイリと福島での両地域で数多くの共通した結果が見られ、福島では放射線にさらされてから間もない第一世代の動物にすでに放射線の負の影響が出始めている、ということです。
日本語訳:梶田幸江

英語を見ると、「第一世代の動物にすでに放射線の負の影響が出始めている、ということです」、とは断言しておらず、”[this research] provides some clues to the effects of exposure to radiation of the early, first generations of animals” つまり、「この研究は、第1世代の動物の放射線被曝の影響を理解するいくばくかの手がかりとなるものである」、程度の軽い記述なのですが、この点について更に教授に伺ったところ、確かに違っており日本語の表現はきつくなっているが、趣旨は日本語のままでよい、とのことでした。
また、リンク先の英語のイントロに、去年の7月に教授が行った時点での福島の放射線量について言及しているところがあります。ホットスポットで毎時100マイクロを越えた場所があった、とおっしゃっています。

「Contamination levels across large areas of the prefecture were higher than expected by the team, with many areas > 10 microsieverts per hour. Several “hot spots” were detected that exceeded 100 microsieverts per hour. And much of the heavily populated areas (e.g. Fukushima City and Koriyama) had areas where levels were in excess of 1 microsieverts per hour (about 9 millisieverts per year), a level that has been shown to negatively influence birds and insects in Chernobyl following 20 years of exposure.

福島県の広い範囲での汚染のレベルは、チームが予想していたよりも高く、毎時10マイクロシーベルトを超える場所も多くあった。ホットスポットのいくつかは毎時100マイクロシーベルトを超えた。福島市、郡山市などの人口の多い地域には、放射線レベルが毎時1マイクロシーベルトを越える場所があった(これは、年間で9ミリシーベルトになる)が、このレベルは20年間の被曝を経験したチェルノブイリで鳥や昆虫に悪影響が出ることが分かっているレベルである。」

「科学的根拠」という権威のためとはいえ、このようなことを去年の7月、8月に知っていたら異なった行動を取った福島の住民の方々もいらっしゃるんではないかと思うと、複雑な気持ちです。
放射能の影響についての情報、データが出てこないままで避難しない「選択」をされた方々が、本当に選択をするのに必要だった情報の一つではなかったかと思います。

貴種流離譚

「幼神の流浪」
文学は古代社会の信仰から生じたとする折口は、日本の信仰形態のひとつとして、無力な幼い神を神人が斎きながら諸国を放浪するかたちの宗教集団の存在を指摘し、この集団が幼神の縁起・由来を語る芸能から「物語」が発達したとする。
それゆえ日本における散文文学・物語類には、祖形として
高貴な生まれの、弱く、力ない人間が、遠い地をさすらう苦悩を経験する
という説話型が組みこまれているとするのが、貴種流離譚である。

後期の論考において、折口は日本人の原罪意識に着目する。
この際、「貴種流離譚」なる用語はすでに用いられなくなったが、各種の論文のなかでスサノオやヤマトタケル説話が例として引用されていることからもわかるように、晩年の折口にあっては
「貴種流離譚」「稀人」「原罪意識」
の三つが融合されるかたちでの思想が醸成されていた。
幼神が流離しなければならない理由を、故郷において彼が犯した原罪をあがなうための罰として理解するものであり、折口の文学・歴史・宗教を横断する柔軟な発想が特徴的にあらわれるものである。

神話学
すべての文明に見られる神話にはある種の基底構造があるとするモノミスの理論があり、ジョーゼフ・キャンベルは『千の顔を持つ英雄』モデルを提示している。
神話上の英雄には基本的に同じパターンが見られるとする。
冒険の物語については、ギリシア神話や日本の神話にも例が見られ、『高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、「忌子として捨てられた双子の弟」「王位継承を望まれない(あるいはできない)王子」などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する』という話型を持つものがある。

大塚英志著『物語の体操』では、以下のように定義される。

英雄は、高位の両親、一般には王の血筋に連なる息子である。
誕生には困難が伴う。
予言によって、父親が子供の誕生を恐れる。
箱、かごなどに入れられて川に捨てられる。
動物とか身分のいやしい人々に救われる。彼は、牝の動物かいやしい女によって養われる。
大人になって、子供は貴い血筋の両親を見出す。この再会の方法は、物語によってかなり異なる。
生みの父親に復讐する。
認知され、最高の栄誉を受ける。

文学

西洋ではラテン語のlittera「文字」及びその派生語litteratura「筆記、文法、教養」を語源とし、現在では主に以下の意味を持つ。

言語によって作られ、審美的な側面を持つ筆記または口述の(科学的な作品や教育的な作品などとは異なる)作品の総体:1764年初出
そのような作品を創作し、研究する活動:19世紀前半以降
審美的な側面に関わらず、ある主題に関係した出版物の総体[1]:1758年ドイツ語Literaturから

中国・日本での「文学」の語は古代より書物による学芸全般を意味したが、今日のような言葉による審美的な創作を意味するようになったのはlittérature, literatureの訳語として「文学」が当てられた明治時代からである。

不明確
文学は、言葉によるコミュニケーションのうち、言語の力を活用して受け手への効果を増大させようとするものとして定義される。
個人的判断によって境界が曖昧となる文学は、その媒体や分野ではなく審美的な機能によって特徴づけられる表現方法が内容より優位であり、情報伝達に限られた実用的なものからもはみ出すものである。
それによって作者が歳月を隔てて我々に語り掛けるところの書物文化に結び付けられ、同時に我々の歌謡がその遠縁であるところの文字を持たぬ人々の伝統的な詩歌のようなさまざまな形の口承による表現や、役者の声と身体を通して受容される演劇などにも関係する。

普通の意味での文学は、それ自身が芸術である。
しかし、哲学書や、舞台芸術の戯曲や脚本などに接近すると、境界を定めるのは時として困難である。
一般的には、文学は特に審美的な目的ないしは形式を持つ作品と再定義される。
この側面が文学の志向性であり、ジャーナリズムや政治などの何らかの特定の制約に従う各種の作品と識別する基準である。
一見、この定義は純粋に哲学的・政治的・歴史的な作品を排除するように見える。
だが、作品の各分野やタイプが文学に属するか否かの分類には特に慎重であるべきである。
あるテクストは作者がそう望まなかったにも関わらず、またそれがその分野としての目的ではなかったにも関わらず一定の文学的側面を持ってしまい得る。

実際、文学とはまず第一に、自分自身と自分を取り巻く世界について自分の言葉で語る者と、その発見を受容し分かち合う者との出会いなのであり、その形式の果てしのない多様性と絶え間なく新たに生まれる主題は人間存在の条件そのものを物語っているのである。

歴史的発達
審美的志向性を持つ作品の集合という文学の定義はかなり近代になってからのものである。
それまでは、形式的基準に適合する作品が文学として認められる傾向にあった。
評論の始祖の一人であるアリストテレスは『詩学』において、悲劇と叙事詩に的を絞りそれらの話法を支配する形式的な規則を導入した。さらに、古代ギリシア人にとっては、歴史は純然たる芸術であり、詩神クレイオーに霊感を与えられるものであった。

随筆もまた文学に属すると考えられていた。
今日のもはや文学作品とは考えられなくなったような随筆に比べ、当時の随筆では主題は重要なものではなかった。
哲学もまた劣らず両義的なものである。プラトンの対話篇やローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』の文学性は今日誰も疑問に思わないであろう。
他方で、文学の審美性が厳格な単純性をもって表される詩がしばしば最も純粋な文学形式であると考えられてきた。
作品の文学性は移ろいやすいものであり、世紀を経ると共に文学は領域を拡大し、多様で通俗的な諸形式を次々と取り込んで行ったものと思われる。

作者と作家
文学の定義に基づき、「作者」と「作家」の間には区別がある。作家は文学作品を書く者を指すが、作者は政治・歴史・科学・文学などの別を問わず何らかの書物を著した全ての者を指す。

芸術家か職人か?
文学作品の芸術性の拠り所は文芸評論家たちを頻繁に分断してきた問題である。古代より、2つの異なった概念が存在し、来たるべき様々な文学や芸術の潮流に影響を及ぼしてきた。アリストテレスは『詩学』において表現的な側面は重要でないと考え、それよりも作品の形式的な特性に固執していた。作家の仕事は、厳密な規則や理論に従うという面で建物を建てる大工の仕事と類似したものであるということになる[3]。それに反して、偽ロンギヌスは『崇高論』において、感情の表現を前面に押し出した。崇高は読者を興奮させ、恍惚とさせるものであり、それは話法の完成と一致するものとされた。ここには、審美的な題材に細工を施し受け手に反応を引き起こそうと働く職人と、公衆に移入させるような感情を現し作り出す霊感に恵まれた芸術家の対比が見出される。この論争は文芸評論史で幾度となく再出現し、また古典主義とロマン主義、キュビスムと表現主義のような互いに相容れない潮流を数多く生み出した。

解離性同一性障害(多重人格)

「解離」には誰にでもある範囲から、障害とみなされる段階までがある。
不幸に見舞われた人が目眩を起こし気を失ったりした場合、これは正常な範囲である。
更に大きな精神的苦痛で、かつ子供のように心の耐性が低いとき、限界を超える苦痛や感情を体外離脱体験とか記憶喪失という形で切り離し、自分の心を守ろうとするが、それも人間の防衛本能であり日常的ではないが障害ではない。

障害となるのは次ぎの段階である。
空想と解離は、慢性的な外傷的状況、あるいはストレス状況におかれた子供にとっては唯一の実行可能な逃避行であるが、 状況が慢性的であるが故にその状態が恒常化し、子供の内か、思春期か、あるいは成人してから、何かのきっかけで自己統制権を失い、別の形の苦痛を生じたり、社会生活上の支障まできたす。 これが障害である。
解離性同一性障害はその中でもっとも重いものであり、切り離した自分の感情や記憶が裏で成長し、あたかもそれ自身がひとつの人格のようになって、一時的、あるいは長期間にわたって表に現れる状態である。
しかし、患者の中には、長期にわたってその「健忘」や「別人格」の存在「人格の交代」に気づかずいるものも多い。

解離は防衛的適応ともいわれるが、一過性のものであれば、急性ストレス障害のように、時間の経過とともに治まっていくこともある。
この段階では、障害と診断されない限り障害とされることは少ない。
しかし慢性的な場合は反作用や後遺症を伴い、複雑な症状を呈することがある。
深刻な場合には、例えば「感情の調整」が破壊されることから更に二次的、三次的な派生効果が生まれ、衝動の統制、メタ認知的機能、自己感覚などへの打撃となり、そうした精神面の動きや行動が生物学的なものを変え、それがまた精神面、行動面に跳ね返ってくるという負のスパイラルに陥る。
うつ症状、摂食障害、薬物乱用、転換性障害を併発することがあり、そして不安障害、アスペルガー障害、境界性パーソナリティ障害、統合失調症、てんかんによく似た症状をみせ、リストカットのような自傷行為に止まらず、本当に自殺しようとすることが多い。

スピーゲル は(その深刻なケースを念頭においてだが)次ぎのように述べている。

「この障害に不可欠な精神機能障害は広く誤解されている。これはアイデンティティ、記憶、意識の統合に関するさまざまな見地の統合の失敗である。問題は複数の人格をもつということではなく、ひとつの人格すら持てないということなのだ。」

一般に多重人格といわれるが、ひとつの肉体に複数の人格が宿った訳ではない。
あたかも独立した人格のように見えても、それらはその人の「部分」である。
これを一般に交代人格と呼ぶが、そのそれぞれがみな人格の一部なのだという理解が重要といわれる。
それぞれの人格は、その人が生き延びる為に必要があって生まれてきたのであり、すべての交代人格は何らかの役割を引き受けている。

持続可能性

以下の5つの基本概念から構成される。

資源・容量
有限な地球の資源量の中、経済的な営みが行われること。もったいない精神。
時間的公平性
現行世代が過去の世代の遺産を継承し、将来に受け渡していくこと。
空間的公平性
国際、地域間で、資源分配が公平に行われ、搾取構造がそこにないこと。
多様性
他の生命も含め、個や種、文化的な多様性を価値として尊重すること。
意志とつながり
よりよい社会を築こうとする個人の意志と、対話を通したつながり、開かれた相互対話と社会への参加。

JFSでは
他の生命をも含めた多様性を尊重し、環境容量の中で、いのち、自然、くらし、文化を次の世代に受け渡し、
 よりよい社会の建設につながり、地域・世代間をまたがる最大多数の最大幸福を希求すること。

と定義する。

4基軸
より包括的にとらえるため、GRI等で提唱されるトリプルボトムラインの概念を参照しつつ、スウェーデンの環境コンサルタント、アラン・アトキソン氏のサスティナビリティ・コンパスのフレームワークを援用し、以下の4つの分野を基軸としました。

環境
自然、地域環境を幅広く包含し、資源容量や生物多様性の概念を内包する。
経済
物やサービスを提供することによりくらしや生活を豊かにし、ゆとりをもたらすもの。
社会
社会活動、政府、学校、コミュニティなど、人間生活の集合体。
個人
個人の自己実現、幸福の追求、社会参加、生活の質向上など